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負けには必ず理由がある

2023.06.15更新

「勝ちには不思議な勝ちがあるが、負ける時には必ず理由がある。」

プロ野球の名将・野村監督がよく口にしていた言葉です。先日の私の誕生日4月24日、この日は戦国時代に賤ヶ岳で負けた柴田勝家公が落城自刃した日なのだそうです。

勝った羽柴(豊臣)秀吉こそが織田家の家臣筆頭のように思われている方も多いのですが、実のところ筆頭家老は長年にわたり柴田勝家でした。順番で行くと、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、その次が秀吉と明智光秀でした。ですから、立場から言えば圧倒的に上役の勝家が部下の秀吉に負けた…。
柔道で言うなら、軽量の古賀稔彦が無差別級の山下泰裕を一本背負いした感じでしょうか。(例えが古くてすみません…)
ではなぜ負けたのか?知っている事を書いてみます。


①行動力と広報戦略で負けた
信長が本能寺で死んだ際、柴田勝家は秀吉より近畿の近くにいながら山崎の合戦には間に合いませんでした。理由は交戦中の上杉景勝と即座に和睦しなかったためです。秀吉が毛利氏と即座に和睦して大急ぎで帰って来たのとは対照的です。そして、明智光秀を滅ぼした後、誰を後継者にするか?清洲で会議が行われました。
この模様は三谷幸喜の「清洲会議」という映画で面白おかしく描かれていますが、要するに行動が鈍かったことを丹羽長秀に指摘され、自分が押す織田信孝を後継者にすることができませんでした。後継者争いに負けた事で勝家の求心力は揺らぎ、後々の味方がずいぶん減ったそうです。また、柴田勝家は織田信長の葬式を執り行う権利を有していましたが、これをしませんでした。
勢い、秀吉が執り行ったのですが、これは秀吉が事実上の後継であることを広める効果がありました。広報戦でも秀吉が一枚上手だったと思います。


②情報戦で負けた
柴田勝家は北陸を拠点としていました。当然雪の間は動けません。その間に秀吉は勝家の甥の勝豊(長浜城)を味方に引き入れました。養子なのですが、最近勝家と不仲であるという情報を秀吉が握っていたとのこと。そして勝家が雪で即座に動けないのを確認して、同盟者の滝川一益(伊勢)を一気に攻めます。この間、秀吉は通常の何倍もの諜報活動と情報統制を行なったそうです。
一方、勝家は秀吉の動向を知らず、家康の狙いを読み違えて味方にすることにも失敗しています。勝家は情報戦でも負けていたと言えます。


③自信がありすぎた
賤ヶ岳の戦い自体は当初は互角かそれ以上に勝家が優勢でした。しかし、秀吉の本軍が勝家が思っていたよりも早く戦場に到着したため、均衡が崩れ、前田利家などの裏切り(戦線離脱)もあり、あっけなく負けてしまいます。
司馬遼太郎は勝家が負けた理由を「結局のところ自信がありすぎたのだ」と総括しています。自信があるがために細かい点に目が行き届かず、大雑把な戦略、戦術しか立てませんでした。
結果として準備万端の秀吉に負けたと解釈しています。
日本電産の永守会長は、最近の著書で「経営者は臆病なくらいがちょうど良い」と書いておられました。同様のことは多くの著名な経営者が語っています。人は臆病だからこそ念入りに準備しますし、失敗しないよう工夫します。これは戦国時代も現代も変わらないのだと思います。


生成 AI の爆発的な進化、世界が体験したことのない人口減少、資源価格の乱高下、円安、金融不安・・・様々なことが日々起こります。こうした現実を追いかけるのは勿論とても大切なことです。しかし、変動が激しい今だからこそ歴史を振り返ることがヒントになることも多いと思うこの頃です。